東日本へクリスマスプレゼントを届けに行った帰りには、雄鹿半島を経由して帰る予定にしていました。

その途中にあるのが、大川小学校。

70名以上の子供達が津波の被害に遭われた場所です。

報道などにも良く取り上げられるこの学校ですが、避難場所に指定されていたそうです。

震災の際には、ご近所の方も避難されて一緒に被害に遭われたとか。
報道では子供たちのことが取り上げられますが、それだけでは無かったことがわかりました。

学校の中は、そのまま

災害にあっった多くの建物が壊されていく中、大川小学校は残すことに決まったようです。

ただし、未だ全く手が入っていません。

かなり危険な状態で残されています。
その代わり、当時の状況が今でも感じられる数少ない遺構となっています。

この建物を見ると、今でも津波の怖さがわかります。

津波は、建物2階の天井まで来た

下の写真を見ると、津波がきた高さがわかります。

写真だとわかりにくいのですが、斜めになっていて奥側が高くなっています。

一番手前は、天井が落ちてしまい下地が見える状況です。
津波の勢いが強かったのですね。
次に、黒ずんだ天井。
その奥が、白い天井になっています。

この、真ん中の黒ずんだ天井まで津波が来ました。

デザイン的にはとてもこだわりのある建物なのですが、屋上が無いため逃げることも出来ませんでした。

山に登る

今回は、裏山に登らせていただきました。

あの「逃げることが出来たのではないか、」と言われた裏山です。

写真のちょうど真ん中あたりにある、白い横棒みたいなところが、津波の来た地点です。

今回は、学生の見学している方と一緒に許可をいただいて登りました。

思ったよりも高い、それに険しいです。

語り部(説明をしてくれた方)も、
「統計で15人に1人は転ぶので、注意してください。」
と言っていたくらいです。

確かに、子供や、避難していた高齢者が登るには不安を感じると思います。

ましてや、ここは海から3.8kmも離れています。

「まさか、ここまで」と思ったのでしょうか。

私も、あの地震が起きた時にはこのような大きな被害が出るとは想像もできませんでした。

この橋が、堰き止めた?

大川小西の少し上流側には長い橋があります。

この橋が、大川小へ津波が来た原因の一つではないかと言っていました。

と言うのも、海岸沿いには何万本もの松があったのだそうです。
その松などが津波により運ばれ、この橋に詰まって津波を堰き止めてしまったのではないか、という話や考えがあるそうです。

ここより上に登れなくなった津波が、この橋の両側に流れ込み下流側にある大川小学校に襲いかかることになります。

確かに、大川小で壊れている部分を見ると、上流からの流れで壊れている部分があるのです。

最近の災害で多い土砂崩れも、橋が堰き止められ被害にあったという話を聞くことがよくあります。
流れは逆ですが、似た感じで災害が起きたのでしょうか。

今でも、子供を探している方が

学校の隣では、バックフォーを使って作業をしている方がいらっしゃいました。

何か、整備をしているのかと思っていたのですが、違いました。

ご両親が、今でも見つかっていないお子様を探しているのだそうです。

この時、8年と9ヶ月が経っていました。

語り部の方のお子様も被害に遭われ

今回、初めて説明を聞くことが出来ました。

と言うのも、見学していたら語り部の方が声を掛けてくださったのです。

中学校の先生だそうですが、とても丁寧に説明をしてくださいました。

実は、この方のお子様もこちらで亡くなっているのだそうです。

ここには書き切れないくらいの、思い、
同じ教師だからこそわかる、思い、

お話を聞いている途中では、私も涙が出そうになり顔を見ていられなくなってしまい、つい背中を向けて上を見てしまいました。

一緒に話を聞いていた学生さんや引率の先生方も、言葉もなく話を聞いていました。

とても貴重な経験をさせていただきました。

ここには書けない、そのようなお話をたくさん聞かせていただきました。

とても勉強になりました。
ありがとうございます。