全く情報の無いまま見ることになった「君たちはどう生きるか」。
公開が始まってから2ヶ月以上経ちましたが、今でもお客様は入っているようです。

この映画の印象につきましては、ご覧になった方々で様々。それについては今回は触れないでおきます。

私が見て驚いたのは、舞台が栃木県鹿沼市としか思えない、断言できそうな描き方だったからです。

なぜそこま言えるのかといえば、私が8年前に宮崎駿さんのお兄様である宮崎新さんとメールのやり取りをしていたから。

そこで、今回は宮崎新さんからいただいたメールを元に考証してみます。
宮崎新さんからいただいた文章には2重の鉤括弧『』を付けますので、参考にして下さい。

1:宇都宮大空襲の晩、大火事を経験

最初の頃のシーン、あの火事のシーン。
あそこは宇都宮で経験した宇都宮大空襲のようです。

病院が家事、ということですが描かれている火事のシーンが広範囲すぎるように感じます。

下の写真は、宮崎駿さんが宇都宮市に疎開していた時に住んでいたお家です。今でも残っていてギャラリーとして利用されています。

当時としては一般的なつくりなのですが、主人公の眞人さんが2階まで階段を駆け上がり火事現場の方を見ている廊下にそっくりですね。

新さんは『私達の乗った脱兎さん(多分「ダットサン」)トラックは逃げるほうに向かって空襲されましたから、道路の左右で焼夷弾が雨のように降る中を走ったのです。』とおっしゃっています。

火事場の描き方、車に乗ってはいませんが、まさに焼夷弾でも落ちているような描き方ではなかったでしょうか。

引っ越した先は、鹿沼市の御殿山

宮崎さんご家族が引っ越したのは現在の鹿沼市役所の北側にある御殿山病院辺りです。
下の地図を見ていただければお分かりになるかもしれませんが、西側には「鹿沼城」があった場所です。

街の近くではあるのですが、結構森深いような印象があります。
下の写真は、宮崎さんが疎開していた現御殿山病院の北側辺りです。
描かれているように、森の中に入っていく雰囲気がありますね。

『別荘跡は、その後鹿沼市に買い上げられ、結核療養所になっていると聞いています。』
と新さん。結核という言葉がよく出てきます。

2:宮崎さんのお父様の工場は、鹿沼市に有った

『私は小学校一年で。駿は四歳半で、三男の一歳半で、四男の至朗は翌年の六月生まれですから、兄弟は三人だったのです。』

当時、まだ宮崎駿さんは小学校に入学する前。

『鹿沼の思い出が鮮明なのは、私だけで、駿ははっきりとは覚えていないようです。』
と宮崎新さんは言っています。

ただ、当時の話はかなりしていたようで、新さんから聞いた記憶から描いているところもあるのかもしれません。

『宮崎航空興学は設立当初の社名で、祖父の死後、経営を受け継いでいた伯父と父が設立した会社です。伯父は戦時中は肺結核で長期治療を受けていましたから、実質の経営は父がやっていて時期もありました。宮崎航空機製作所と言う社名は、社名を変更したものです。』

『戦時中ですから、工場は勤労動員とかで、鹿沼地区から、多いときで2800人も働いていたそうです。』

工場は、疎開先から東の方に位置していました。
場所は、現在の「おおのホール 鹿沼JR駅前」です。

最初、ここに2800人もいた工場があると聞いた時に違和感を感じました。というのもここは坂の途中で大規模な工場などに適していない場所と考えたからなのです。

古いゼンリンの住宅地図には掲載されていることを確認できたので、ここに工場が有った事がわかりました。
(ゼンリンの地図は、著作権上掲載はできません。悪しからず。)

映画の中では、工場を疎開先から見下ろすように描かれていますが、実際には少し上の方になるかと思います。

今では建物が有り見えませんが、当時は見えたのかもしれませんね。

工場の東側には「JR鹿沼駅」があります。
劇中では「上沼行」というバスがありました。なんとなく似ていますよね。「鹿沼」と「上沼」。

3:住まいは、城郭のような白壁の大きな建物

主人公の眞人さんが家に入る時に、すごい家だなと思いませんでしたか。実は、新さんも同じ印象だったようです。

『小高い丘に聳えるような、まるで城郭のような白壁の大きな建物でした。子供心にも「格好いいな」と感じたものです。』

大きい石の階段を登る眞人さん。その横には、白い塀があります。まるでお城のようでした。

『門を入り、砂利道を上っていくと「母屋」と言った大きな建物があり、二階は三十六畳敷きで、目を見張るような広さに感じたものです。』

映画では、大きな屋根の平屋のようでした。しかしながら、豪華で広く描かれた建物が印象に残った方も多いのではないでしょうか。

『私達の住まいは、母屋から畑をはさんだ所に建てられた、離れ家でした。六畳二間と台所の狭い建物でしたが、親戚との同居ではないだけ、優遇されていたと思いました。』
下の絵に書いてあるのが、主人公眞人さんの住んだ離れ。

実際に住んだのは「六畳二間と台所の狭い建物」でしたが。

4:家の近くに池がある

『母屋から左手(南?)にちょっとした坂を下ると、池が大小二面ありました。ご飯粒を餌に鯉を釣り、隣の池に放すのは楽しかったですね。』

「君たちはどう生きるか」にも、池が印象的に描かれています。実際の池は掘り程度でそんなには大きくなかったようです。

『特に驚いたのは、宇都宮ではお目にかかれない昆虫の多さでした。』

「君たちはどう生きるか」に昆虫は出てきません。意外でした。でも大量に出てくるオウムとインコ。虫では絵的に地味なので、カラフルにできるオウムとインコに変えたのかもしれませんね。

今気がついたのですが「オウム」と入れようとすると漢字変換で「王蟲」と出てきてしまいます。考えてみれば、あのオウムの描き方は真っ直ぐな王蟲に似ているのかもしれませんね。

『防空壕に避難したこともありましたが、危機感よりも子供たちにとっては、楽しいものでしたね。』

あの不思議な家の中にある穴、防空壕が大元なのでしょうか。

『竹で弓矢なんかも造って遊びましたが、弓矢は予想以上の威力があり、子供心にも危険と感じたものです。』

劇中に出てくる弓矢、実際に竹で作って使えるのかと思っていたのですが、実際に作って遊んでいたそうです。それも、予想以上の威力があったと言っています。映画の中での描き方も、間違っていないのかも。

5:実際に有った、学校でのケンカ

この辺りまで映画を見ていて、まさに私が宮崎新さんに聞いていた事そのままと驚いていました。

その中でも決定づけたのがこれでした。

学校での喧嘩です。ここは、少し長く掲載します。

『疎開して数日後に近所の小学校へ行きまして、数時間の授業を受けました。
国語の時間に「読む」ことを指名され、読みましたら、放課後に「町の言葉」といちゃもんを付けられ、殴り合いになってしまったのです。一人対一人の時には勝ったのですが、数人の加勢に合いやられてしまいました。
女性とたちが止めてくれたのですが、それ以来、登校を拒否したのです。女の先生が迎えに来てくれたこともありましたが、拒否し続けました。

母親も、鹿沼は仮の住まいでもあるし、近々に宇都宮の松が峰の家に戻る予定だったらしく、私の拒否を受け入れてくれました。』

この話は、小学1年生であった宮崎新さんの経験談です。
あの場所からですと、小学校は鹿沼市立中央小学校でしょうか。宮崎新さんに聞いたのですが、何しろ1日しか行っていないので覚えていないとのことでした。

車でなくて歩いていける距離なのですが、わざと車で送って行ったのかもしれませんね。

学校へ行かなかった宮崎新さんは遊び放題でとっても楽しかったと言っています。

『それからは、子供の天下でした。何しろ、一日中、魚や虫と遊びほうけていればいいのですからね。
駿は母にべったりでしたから、遊び相手は居ませんでした。』

『駿は母にべったり』の文を掲載するかどうか迷ったのですが「君たちはどう生きるか」のラストを考えると大切な言葉と思い掲載しました。

宮崎新さんは、
『鹿沼といえば私の幼児期の最高の思い出の地であることに変わりないのは今も全く変わっていません。』

と言っています。

ケンカとイジメがすごかった時代

当時、宇都宮や鹿沼では疎開してきた人などへのイジメや喧嘩が凄かったそうです。この後に宇都宮に戻った時にも、東京へ戻った時にも、常に臨戦体制だったようです。

『お分かりにならないとは思いますが、疎開先での「いじめ」は大人の世界だけでなく、子供の世界でもひどい物でした。』

宮崎駿さんの作品では、殴り合いのシーンも少なくありませんね。「紅の豚」の最後とか。

『「天空の城ラピュタ」で、空賊の女親分は、母のイメージだそうで、喧嘩をするひげの兄貴は、私のイメージだそうです。これは、駿に直接確かめましたから間違いないようです。』

まさか、ラピュタのドーラがお母さんのイメージだったとは!

ケンカについては、このように書いています。
『宇都宮の小学校では、毎日のように放課後に殴り合いがありました。1対1、2対2、3対3とかで殴りあうのですから、今考えますと、やはり戦後の殺伐とした世相がそうさせていたのかもしれません。こんな事は、家では一切口にせず、親たちは知らなかったはずです。』

親にケンカの話はしていないようです。
主人公の眞人さんが、親に隠そうとするためにつまずいた証拠として頭に傷跡を残す、あのシーンです。

当時だと「ケンカに負けたらもう一度ケンカして勝つまで帰ってくるな!」と親に言われて家を出される子供もいたとか、いなかったとか話がありましたね。

キャノピー

「君はどう生きるか」の印象的なシーンの一つに家の中に戦闘機のキャノピーを運び込むシーンがあります。宮崎駿さんはインタビューで以下のように答えています。

「実家で新品の風防が2つ置いてあるのを見た」(「週刊文春」編集部/週刊文春 2023年7月27日号)

これは、宮崎新さんの記憶には無かったようです。

『鹿沼の工場には何度も行きましたが、飛行機の完成した物は見たことがありません。当時は分業制でしたから、胴体か翼か見ただけでは判りませんね。たくさんの人がうすくらい工場内で働いているのを見た記憶はあります。』

見逃していたのかな。

タバコ

今の時代には珍しく、タバコのシーンが多いですよね。実際にお父様はタバコはお好きだったようです。

『タバコは父も困ったようで、闇市場でタバコの葉を買ってきて、手巻き機で巻いて吸っていました。』

私の父も、いまだにタバコを吸っています。何度もやめたのですが、止めてもダメですね。

お酒

「君はどう生きるか」に、お酒のシーンは出てきません。

『父は殆んど酒をたしなみませんでした』

飲まなかったんですね。他のご家族はどうだったのでしょうか。

それでも、このようなエピソードを残しています。

『会社にエチルアルコールをドラム缶で6本売りに来た物を父が買ったそうですが、戦後、親戚同志で集まったときに、父が、あのドラム缶のアルコールはどうしたのかな?  と言い出しまして、その時居た叔父達が、あれは皆で飲んじゃったよ と言って大笑いしたを覚えています。』

やはり、飲みたい人は多かったのでしょうね。

鏡開きは、宇都宮の「澤姫」

映画「君たちはどう生きるか」の公開に際して行われた鏡開きには、宇都宮市白沢町「井上清吉商店」でつくる「澤姫」が採用されています。

下野新聞がスタジオジブリに問い合わせたところ「(社内行事のため)秘密です。」との返事が来たとか。

このようなところからも、宮崎駿さんは宇都宮市に対していいイメージをお持ちなのではと思えますね。

「君たちはどう生きるか」の舞台が栃木県鹿沼市である理由を書いてみました。

トトロの話をしている時に、あの舞台はどこなのでしょうと聞いたのですが、

『鎮守の森と田圃の風景は、日本中にある景色ですから、皆さんが自分の町と思われたのは仕方のないことで、それだけ、一般的な風景なのでしょうね。』

ともおっしゃっています。

でも、あれが鹿沼市のあの地だったら、嬉しいですね。

この翌年、宮崎新さんは亡くなられています。

今回紹介させていただいた内容以外にも、たくさんの貴重なお話をお伺いいたしました。

ありがとうございました。

参考文献:宮崎新さんからいただいたメール:2018年9月〜